Chanka Diary

仕事に対する姿勢を崩さないように。

 

効率性の探求
・正当な動機
行動は動機がなければ実行に移せない。そう、指針無しに行動すれば自分を見失うからだ。ここでいう動機は様々なものに共通する大まかな道筋を指す。
例えば、生活・仕事・恋愛などの行為を伴う活動には動機が必要だが、
欲求と恩情、その両方は必要であるが過ぎてもいけない。
かと言って、自制が過ぎても冷酷であり過ぎても同様である。
なぜその危険を考えなければならないのか。
そう、その行き過ぎた状態は、自覚こそ無いが歪んだ動機に基づいている為だ。
まっとうな大義が有れば自信を持って行動できる。
しかし、それらが無ければ、
いたずらに言葉を難しくしてその行為をもっともだと思わせたり、
学生が好意を持つ異性に嫌がらせをする様なそんなのだったり、
それぞれ、確実な裏付けが無かったり、性欲に従順である事を悪だと考えているからだ。
この勘違いをもっともだと思う人が多いからこそ、
交流は限定的になり、グループを作りたがる人・依存する人ばかりだ。
そこに上下の関係を作りたがるし、そういったややこしいモノにこだわる人も多い。
それにこだわって、本当に大切なモノを見失う。「本末転倒」その言葉を通りだ。
また、提案だとかウィン–ウィンだとか、行為に大義を付けもっともらしく語っても、
うさん臭いし、結局は自分たちのグループへの利益を優先しているに過ぎないと気付く。
なぜなら、そう心から思う場合はその様な前振りなど無しに必要な事のみを話す為、
そう思わせる事が不要なのだ。大抵の人は馬鹿じゃない。
そう、選択する相手に重点を置くことで必要な情報を返すだけに足りる。
隠す為の行動が無ければ何事もスムーズに運ぶ、行為に過剰に反応し過ぎて気持ちが悪い。付け加える事は大切だが自分のモノにしなければ時間も労力も無駄だ。
例えば身近な例として、過程やツール(道具)を自慢する様な、
資格であれば、誰にも求められない様な資格まで取得しその数を誇示する人がいれば、
有名な著者の本を読む事で優れていると勘違いする人もいる。
肩書きを振り回し偉ぶる人もいるし、所属を誇る人もいる。
動機自体を結果にしている為それ以上は目指せないし、
ましては未満たりえない様な形だけの人も多くいる。
自分はそうではないと誰もが思うだろう。
当然なのだが、そうで無ければその人のしている事自体を本人が正しいと思えていない。
動機の時点で破綻している事になってしまう。
よって、恐ろしいのは自分では気付けないという点だ。加えて誰も教えてくれない。
ただし、人は変わる。人は時間を絶えず何かに変え続けている。
動物じゃない、単純でないからこそ、誰をも軽視する事はできない。
・捨てる時代
誰もが時間は有限だが、選択は日本にいるそのほとんどが自由だ。
何をしようと自由だからこそ多くに目が移る。
そのひとつひとつに興味を奪われていては時間が足りない。
簡単な行為には独自の能力や資産は伴わない。
例えば、何かに所属する事で優越感や名目を得ることはできる。
しかし、本人に本質的な変化は無い。
なぜなら、その個人が変われるのはいつだって変わらざるを得ない時だからだ。
変わらざるを得ない時とは、自分の欠点が露わになった時である。
その欠点はある程度自分の形を持たないと比較する事はできない。
ひな形ですら多くが間違っている。
例えば、ひな形の典型である法律だって年に何回も改正されている。
だから、自らを多くと比較し理想の形を自ら確立しなければならない。
哲学だったり、信念を確立しなければ結局は他人のものさしでしか生きる事ができない。それは、いい子ちゃんの人生に過ぎないが、そんな人生全く楽しいとは思えない。
意味不明のままに逸脱して本質を見失っている人が多くいる中で、
自分の哲学を持つ人は必ず何かを成し遂げる。
ただ、哲学を持つには自身の形が明確で無ければならない。
人の形跡を辿る事も容易になったが、あくまで自分は自分だ。
行いを反省する事で自らでしか気付きえない発見がある。それこそが自覚なのである。
誰かがしていないからするという様なモノ、それをすなわち儲けのチャンスだと思う前に
その行動は自身のあり方に基づくものか、自分でしか成せない事なのか。
自覚に足りない一時的な発見では行為に矛盾が生じてしまう。飽きだったり、嘘だったり。自分で簡単にそういったモノは自覚できてしまう。
さらに、言い換えると他の人は既に気がついていると分かる。
例として、何かをしている時、自分の顔を見ることが出来ない。
ただソレは、顔に出てしまうのである。
だから、自己を確立しそれに基づいた行為で無ければ破綻してしまう。
何もかもを求めて薄っぺらな経験を重ねても、思い出にはなるがそれは資産じゃない。
味が、色が、行動にでる。
それこそ形は無いかもしれないがその人にしか無い資産になる。
簡単に何かを成す事ができないのはその為だ。
明確な失敗や成功を基に築き上げる、捨てるものと必要なモノの区別をつけなければ、
何かを形通りに作り上げる事はできない。真鍮をいかに削り上げて作品に仕上げるか。
それが現代の人間の人生だ。ヘコヘコする必要も無いし、殺されもしない。
誰に強制される事も無い。ただ、自らの行為に自分が全責任を負う。
これこそ自由が保障された時代の生き方ではないだろうか。
ただし、その保障に甘んじるといとも簡単に付け入られてしまう。
だからこそ、人との関係であっても捨てるべき関係は有る。
ただ、関係を断つ事を押し付けてはならない。
・仕組みが形を作る
現代は物事の上辺で騒ぐ人が多い時代である。
民主主義はデジタルでも機能し、多くの人がそうだと言えばそれが真理になってしまう。
身近な例として水素水を挙げる。その真相は分からないが今もそのブランド自体はある。
話を戻すが、上辺の声が強調される原因にSNS等による拡散などが有る。
拡散者によって情報の選択をするというより、不特定多数の情報の判断を強制させられる。自分の意思の所属を確認する為に、上辺のみを知る人までがざわついてしまう。
その様なサイクルが浸透している為である。
だからこそ、何かがおかしいモノがそれで通用するのである。
流行や学生運動などはその最たる例では無いだろうか。
時間をかけて接さない限り本質は見えない、機械の形を作っても仕組み無しに動かない。
ただ、本当に利口な人は意図を言う。ただし、真に意図する事は決して言わない。
嘘では無いがそうなるかもしれない、そんな有利でもっともな筋書きと、
本当の狙い、次の為の布石である筋書きその二つ。
ただ、結局はどちらでも構わない。そう、過程で結果を得るという大きな筋書きの存在だ。声に出した筋書きになれば改めて次の流れを作り出せばいいだけの話である。
そう、この様に過程で結果を作り出し、それを積み上げていく。
小さなものを大切にすれば大きなものを狙わずとも、
小さなものを集めて大きなものを作り出せる。
大きな事柄には確率の世界が関わってしまう。
そんな誰もができる事には決して資産は留まらない。
確率に依存した資産は、他人からすれば市場の小さな流動源に過ぎないのである。
人の欲は本当にキリが無い。受け皿無しに水は流れ出るのみだ。
そう、人は眠り続ける事はできない。時間を絶えず資産・負債に変え続ける。
話を戻すが、情報の根元の意図と対象と本当の狙いを考えなければいけない。
メディアだって人の意図に他ならないなだから。
無意味な発信など誰もしない、必ず意図が有る。
ただ、発信源が愚かであるか利口であるかは分からない。
だからこそ、情報の意図と効果またその副作用より発信源を選別しなければならない。
また、何を言おうと確率では確実に成功できない。成功は全て打算なのだ。
情報の副作用を用い成功者は本当は利口であるがバカの様に振る舞うのである。
そうする事で多くの人が都合良く、その人の成功を運や環境によるものであると考える。結果として、その人は実力を甘く見られる事で他を出し抜く。そう、多くをさらに得る。
取るに足らない様な誰も注意を払う事の無い相手に対策を張る事は無い。
こればかりは誰も対策のしようがどうしようも無いのだ。
そう、小さな積み重ねによる人生一度きりの世界に向けた個人の特権だ。
言いたい事をまとめると、当然の事だが未来を知る事ができる人はいない。
よって、既に目立っている人を利口で無いものが利口ぶっていると相手がそう評価すれば
油断や隙が生まれるし、未だに良い点が目立つ事が無い人はさらに有利だと考えて欲しい。結局は誰も敵になり得る人に対策を練るし本当の事を話そうとしない。逆も同様である。